東京フォト2011 hirOyAsU mAsAkI さんと 篠山紀信さん

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CONTAINERS by hIrOyAsU mAsAkI
 「東京フォト2011」に行ってきました。掲載している写真はライカブースの正面で展示されていたマサキ・ヒロヤスさんという方の作品です。彼は写真を撮ろうといち早く現地入りされこの地震の記録を後世へ遺そうと考えました。しかし既にメディアや巷で流される津波やおののく人々の姿が写った残酷な映像にはうんざりしていたそうです。そして彼の目に映ったのがちょっとユーモラスなコンテナの姿でした。これら2枚の写真は勿論彼の許可を得て掲載しています。ご自身謙遜されて「僕は子どもっぽいところがあるのでこういうモチーフが好きなんです。だからこのコンテナを撮ったんです」と語られた。崩れたコンテナとオペレーショントモタチのコンテナ。

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A CONTAINER by hIrOyAsU mAsAkI
 私は彼のこの着想と撮影スタンスに非常に感銘を受けました。人々が苦しむ姿、傷ついた画像は溢れている。勿論報道カメラマンが撮るそうした写真は価値あるものでしょう。遠い将来、世代が入れ替われば人々はそうした写真も普通に見ることが出来る日はやってくる。しかし被災した人々が近い将来この地震を語り、あるいは思い起こすのにそうした写真はあまりに残酷すぎるし、また見る人を傷つけてしまう写真もあるでしょう。でも彼の写真にはそうした鋭利な危険さがないのです。
 むしろ一件ユーモラスなこの写真はおそらく何も言われなければ311の写真だと気がつかない人もいるかも知れません。だけどよ〜く想像力を働かせればこの日の自然の猛威が充分すぎるほど伝わってくるのです。あの強大なコンテナがこんな風に簡単に崩れてしまう力。あるいはまるで植民地のように置かれた米軍のコンテナ。鑑賞者に現実を厳しく突きつけるばかりが写真ではなく時に写真は写真家の優しい視線でも厳しい現実を伝える力を持つものだと改めて認識させられました。
 実はこの日に入ってすぐ篠山紀信さんの震災チャリティー写真をみているといきなり紀信さんと田中杏子さんのトークショーが始まりました。紀信さんの写真は人っ子一人写っていません。あるのは大自然と震災の残骸のみ。紀信さんによれば今回の地震は自然が今までの自分の形を破壊して自ら新しい形を作ったのだと感じたそう。紀信さんはメディアで繰り返し流される映像を見て自らチケットを買って撮影に行こうとは思わなかったそうです。でもなにか出来ることはないか?と考え連載中の日経コンストラクションに背中をドンされての取材の続きのつもりで現地入りし将来の為に自然の力の記録を残そうと思われ、それが人のいない写真に繋がったと話されていました。
 人がいないということはこの震災をくぐり抜けた人の辛さ苦しみに敬意と想いを馳せたから。それでも自然の力繰り返す破戒と建設は現実のものだという思い。紀信さんの写真には自然の雄大さと美しさ、そしてその自然の力の行為の結果としてのガレキの山、しかし復興の希望を持つ人々の手が入ったガレキの山が同居しています。私は篠山さんがいつのまにか仏教的な世界観を獲得されたのだと感じました。今まであまり意識しなかったが写真家篠山紀信が好きになりました。
 ところが篠山紀信さんの撮影思想をもっと優しく思いやりのあるスタイルで撮影されていると感じたのが冒頭のマサキ・ヒロヤスさんでした。たとえば環境の前に非常な辛く不幸な状況が在ったとします。篠山さんの写真はそれでもその中の女性を、乳首や陰毛もあるいは肌の震えの脈動も捉えた不幸を伝える美しい写真です。描写も緻密さも篠山さんの写真家としての圧倒的な技術もふんだんに注ぎ込まれている。一方マサキ・ヒロヤスさんの写真は不幸な環境の中でも無邪気に遊ぶ子供たちを撮ったような写真とでも言えましょうか。どちらも大自然の力とその前になすすべを失った人々の現実を残酷な描写になし伝える素晴らしい写真だと思いました。
 マサキ・ヒロヤスさんの写真集がちかじか発売になります。その時はまたお知らせします。

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